鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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アメリカ物語1

   

 私の青春時代はアメリカから始まった。
高校に行く前から、アメリカに行くことは決めていたので、卒業すると当然のように派遣制度に応募した。
 当時は、まだ海外へ行くことが珍しい時代だったので、海外ならどこでも良かったのだが、農業の勉強と言う名目で、お金がなくても行けるのはアメリカだけだった。
 将来、農業のリーダーか、農業行政に携わるという者が、各県で選抜され、推薦を受けて東京の本選に臨む。
試験は筆記だけではなく、体力もある。
 東京のオリンピックセンターで研修を受けた後、長野の八ヶ岳の麓で体力の研修。
マラソンや腕立て、登山、炊飯、共同生活も研修の大事な目的。
 東京農大からの志望者も多く、中には体力テストで落ちて帰る者もいた。最終テストの中に米俵を頭の上に持ち上げるのがあり、それで、みんな苦戦していた。
 合格すると、引き続き渡米前の研修に移る。
アメリカについての授業や、洋食のマナー、英語の勉強。。。英語は不思議と嫌いじゃなかった。

 やがて、出発となると一度帰宅して、親父が友達や恩師を呼んで別れの会を開いてくれた。今なら、ちょっと行ってくるというような感じで海外に行くのだが、46年前は、そうではなかった。
 私と、熊本から来ていた3人くらいが最年少だったが、その2人は畜産志望だったので、確かワイオミングかテキサスに行ったと思う。
 旅立つ時のことはあまり覚えていないが、飛行機は、今は無きパンアメリカン航空で、スチュワーデスがやけに大きいのに驚いたのは覚えている。
 当時は23時間もかかってサンフランシスコに到着し、ちょっとした観光や歓迎レセプションがあり、翌日は研修先に配属となった。

 私は、オレンジ栽培研修志望だったので、カリフォルニア。
多くの受け入れ農家は、日系が多く、日本語が通じるとのことだったが、志望を書くとき、私は好奇心から、わざと純アメリカ人農家と記入した。もちろん志望者は少なく、そのまま受け入れられた。
 もう一人の相棒は、私より先輩だったが、日系農家希望だったが、一杯でことらに回されたとのことだったが、やはり馴染めなくて、後日、日系の農家に移ることになってしまった。
 サンフランシスコからグレイハウンドの高速バスで夜も走り、ロスアンゼルスの南の町、リバーサイドの農家、農家と言っても日本の農家と違い、農園のマネージメントをやっている会社のようなもの。
 ドイツ系移民のマイクとリチャードの兄弟で経営しているという。

 そのマイクの出迎えを受け、彼の自宅に寄り、すぐまた車に乗って、それから2時間ほど走ったランチョカリフォルニアのアンザロードにあるトレーラーハウスが終点だった。
 途中の景色は、夜目にも赤茶けた岩山と、サボテンの生えている砂地のような丘。相当山の中に来たな。そう思った。
やがて、オレンジの農園らしきものが見えてきた。
 夜中についたが、メキシカンの農夫長イグナシオとハウスの中にいた先輩二人が出迎えてくれた。
二人とも、まるでメキシカンのように黒く焼けていた。(つづく)
 

 - 雑記

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