鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

*

感謝

      2021/03/19

 日頃より靏繁樹のブログ、「鶴の一声」をご愛読いただき誠にありがとうございます。本日は靏繁樹の家族が代筆させて頂いております。

 ブログをお読みいただいている皆様には、まだご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、父は2021年3月12日金曜日午前、家族に看取られながら息を引き取りました。享年69歳でした。

 桜の花が咲くことを心待ちにしており、最後の花見を楽しみにしておりました。それだけが叶わなかったものの、「自分らしく生きる」という信念を全うし、やりたかったことはやり尽くし、自分自身で最後の過ごし方を決め、父らしい最後の瞬間でした。
 最後の夜は、家族全員が集まるまで最後の力を振り絞り、私達に父の眠る傍での家族団欒の時間を作ってくれました。
 皆様にもご迷惑がかからないように、通夜が土曜日、葬儀が日曜になるように、向こうへ逝く日を自分で金曜日に決めていたようです。
 父が自分らしく生きぬくことが出来たのは、生前にお世話になりました皆様のお陰です。
 故人に代わりまして、お礼申し上げます。

 このブログに関しても、父自身は1000号までの更新を望んでおりましたが、残念ながら叶いませんでした。最後まで心残りにしておりましたので、葬儀用に本人が作成しておりましたお別れのごあいさつの転載及び家族からのお礼の言葉をもって、「鶴の一声」の最後の発声とさせて頂きたいと思います。

 以下、父による感謝の言葉です。

***以下転記***

≪お別れのごあいさつ≫

本日は、ご多用中のところ、私儀 靏 繁樹の葬儀にご参列、ご弔電を頂き、ありがとうございます。心より御礼申し上げます。
加えて、身に余る弔辞や弔意を賜り、感謝申し上げます。

振り返りますと、1951年、昭和26年。戦後といわれる時代に、山河と緑に恵まれた北山の地に、みかん農家の長男として生まれ、優等生でもなかったのに、中学、高校と生徒会長に推され、卒業後は、地域のリーダーと期待されながら、アメリカに農業留学したことがきっかけで進路が変わることになりました。
 19歳から20歳という一番感受性の強い時期をアメリカで過ごしたことで、人生に対する考え方も変わり、ある意味での度胸もついた気がします。
帰国後、自分なりの進路を模索している中で、現在の株式会社マルミツサンヨーに誘いを受け、まずは世間のことも勉強しておきたいと一時的なつもりで入社しましたが、それが生涯の職場となりました。

入社してみると、会社存続に係る想定外の問題が山積しており、絵に描いたような波乱万丈の中で、会社再建という活躍の場を与えて頂き、結果として、入社時には考えもしなかった社長という職責を担う事になりました。
 その為に、会社でも充実した仕事をすることが出来、社外でも、いろんな役職を経験させて頂き、各団体で良き友人を得ることが出来たことは、私の財産となりました。

 いつ死んでも悔いの残らないように生きるというのが、私の信条でしたから人一倍幅広く生きてきたという思いから、死んでも悔いはありません。お陰様で、会社も皆さんのご支援を頂き、健全で安定した業績となり、無事に現経営陣に託すことが出来ました。
 悔いはありませんが、心残りというなら、会社が窮地だった時期には、会社中心で家を空けることが多く、会社が落ち着くまで、散々苦労をかけ、寂しい思いをさせた妻に対して、約束していた余生を一緒に過ごせなかったことと、子や孫のこれからの成長を見れなかったこと。そして、何より、老いた母の世話と最後の看取りを妻に託すことになってしまったことです。

 本当に、私は妻には感謝しています。家庭のことや近所付き合い、仏事などを全て熟してくれて、病気になってからも、ずっと病院への送迎や介護をこれ以上なく世話してもらいました。母の世話もずっと続けてくれています。お陰様で、子供3人も結婚し、孫も3人出来ました。何と言っても、私の自慢は、それぞれの相方を含め、家族は元より親族みんなの仲がいいことです。

 昨年5月下旬に仲間と登山した時に、今までにない息苦しさを感じ、その後1か月は、海外出張などが続いたり商用で中々日程が空かず、帰国翌日の6月24日に検査を受けた結果、膵臓癌から肺に転移しているステージ4の末期癌ということでした。意外と冷静に受け止めることが出来ましたが、その後の精密検査で、この状態だと通常余命4か月程度という宣告には、さすが思ったより短いなと思いました。

 しかし、聞いたその場で病気を受け入れることができ、覚悟が出来たことで、それからは、会社や引き受けている役職の引き継ぎや、家族の今後、相続などについて、まだ大丈夫と思われる1か月の間で計画していきました。
 それが終えたら、楽しく楽に行く方法を選ぼうと、度々、合唱団で慰問に行っていた公立病院のホスピス施設に入院して、余命を全うしようと思っていました。しかし、妻の最後の頼みという言葉で、治療を受けることにし、そのお陰で予定より随分長く生きました。
 また、親しい仲間からの癌に効くというサプリや果物などの差し入れも、間違いなく寿命を長くしてくれました。

 柳病院の杉山先生やスタッフの皆様には、本当に親身になって治療看護をして頂き、初診以来安心して闘病生活が出来ました。衷心より感謝しております。

それから、会社生活46年を通じてお世話になりました取引先や金融機関の皆様、加入していた各団体の皆さん。心優しき同窓の仲間やゴルフ仲間、お世話になった地元飲食店の皆さん、本当に最後までありがとうございました。行政区やいとこ会、靏一族の皆さん、後をよろしくお願いします。

 そして、長年一緒に頑張ってくれた、マルミツサンヨー、丸光運輸の筒井社長、松崎社長他、社員や研修生の皆さん、ありがとう。これからは、社長は社員を大事に、社員は社長を盛り立てて、研究開発・改善改革・団結信頼で、社会や地域に貢献できるような意義ある発展を目指してください。

最後になりますが、皆様のお陰、そして家族のお陰、会社のみんなのお陰で、大変楽しい人生でした。本当に有難うございました
新たな病気や自然環境、生活環境の変化で、人が健康に生きることが難しくなっていますが、残りの人生を、健康第一に、楽しく悔いなくお過ごしください。
これから先、残した妻や家族に対して、私同様に、よろしくご指導ご厚誼頂くようお願い申し上げます。
 皆様のご多幸を祈念し、感謝とお別れの言葉と致します。

感謝     靏 繁樹

***以上転記終わり***

 この≪お別れのあいさつ≫は、故人が、生前自分の葬儀準備として作成したものであり、2020年12月に作成が完了しておりました。
 2021年1月より訪問看護をお願いすることになりましたが、携わって頂きました、みどりの杜の原口先生とスタッフの皆様、八女筑後訪問看護ステーションのスタッフの皆様、リリーケアプランの麻生さんへのご挨拶が書ききれておりませんでした。
 皆様には、父の我が儘な希望に適格かつ迅速にご対応いただきました。我々遺族も、訪問看護でここまでのケアをして頂けたことには本当に驚き、感謝しております。
 最近では、散歩に行くことさえかなわない状況でしたが、皆様とお話しさせて頂くことがとても楽しかったようで、いらっしゃるのを心待ちにしていたほどでした。
 最後の時間を本人の希望通り、穏やかに、家族で過ごさせて頂き、本当にありがとうございました。

 

 このブログは直接面識のない方も含め、広く多くの方々にお読みいただいており、父としても生き甲斐のひとつとなっておりました。

 葬儀を通じ、父がどれだけ多くの方に支えられ、御慕い頂いていたかを再確認させて頂きましたが、さらに多くの方々に、このブログを通じて父の存在をお知り頂いていたかと思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。

 父はこの世を去りましたが、このブログを通じても、多くの方の中に父の記憶が残る以上は、父が本当の意味で「死」を迎えたわけではないのではないかと思います。

 今後、このブログ更新は行いませんが、ふと思い出されたときにでも過去の記事をお読みいただき、父のことを思い出していただければ幸甚です。そして父の思いとして、同じ病気と闘う方にとって、このブログが少しでも参考になればと考えておりましたので、もしよろしければ、皆様の周りにそのような方がいらっしゃった時には、このブログの事をご紹介いただければと思います。

 最後に、このブログをお読みいただいていた皆様にはお馴染みの「カミ様」について。

 「カミ様」こと、母 加津代の全身全霊をかけた看病と愛のお陰で、父はこの1年9か月の闘病生活を自分らしく生きぬくことが出来たと思います。

 闘病生活のみならず、43年間の結婚生活を支えぬいて、愛しぬいた「カミ様」に敬意を表して、ブログを締めくくらせて頂きます。身内自慢にはなってしまいますが、父が書けと言っているような気がしたので、追記させていただきました。

 

 長文となってしまいましたが、こちらにて「鶴の一声」を終了させて頂きます。改めまして、ご愛読頂き、誠にありがとうございました。

 家族一同、心より感謝申し上げます。

                    靏繁樹家族一同

 - 雑記

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