鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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623 海の思い出

   

 本日のブログは、政治も経済もない。米中も北朝鮮も、統計問題もテレビで流され過ぎて、コメントする気もなくなったので、それこそ徒然に書いている。

 私の住む八女の地は、福岡県の南部で近くに海はない。
一番近い所では有明海の北端、大牟田港になるが、ここは昔、炭鉱の積出港として賑わったところで、あまり海水浴などには向いていない。もちろん、コンクリートの岸壁で囲まれている。だから川の水が流れ込む砂地では、潮干狩りが盛んだ。
 海水の満ち引きでの水位が大きいことでも知られており、5m位の差はできるようで、干潮で潮干狩りをしていて、やがて水位が増してくるスピードには最初は戸惑うと思う。

 有明海も、ずっと南まで行くと、天草や葦北などのきれいな海が広がるが、我が家からはちょっと行ってくると言う距離ではない。
 少し沖に出ると水もきれいで、友人に誘われて船釣りに行ったことはあるが、昔から、海水浴と言えば佐賀の唐津一帯、生の松原や虹ノ松原と言うところが定番だった。
 福岡では博多湾は内海で、商工業や民家の排水などで、あまりきれいとは言えず、かろうじて外海に面している志賀島には海水浴場が連なっていた。

 私たちの小さい頃は、車もあまり無かったし、交通手段も限られていたので、内陸部の八女から海水浴に行くこと自体が少なかった。
 海に行かなくても、歩いて行ける所に、矢部川という大きな清流があり、当時は水量も多く、近くの悪ガキ達は、夏になると、みんな深みの場所に集まって泳いでいた。
 夕方まで遊んで、帰る際に、必ず対岸の子供たちと、みんなでお互いの学校などの悪口を言い合って別れる。絶対届かない小石を投げ合う。
 別に仲が悪いわけでは無いが、当時は子供たちの団結が強く、川を隔てると昔からの手前が柳川藩、対岸は有馬藩と言うことも残っていたのか、今考えると滑稽だが、それはそれで楽しい思い出だ。

 小学校低学年の頃、集落の子供会で親たちに、その志賀島に海水浴に連れて行ってもらった。当時はどこの家も兄弟が3、4人はいたものだ。
 当時は、そのように親と遊びに一緒に行くことは、滅多にないことだったので、嬉しい反面、落ち着かないような気持だったのを覚えている。いつも一緒の悪ガキも親の前では、同じように大人しかった。当時の写真が残っているが、もちろん白黒で、色あせている。
 
 私が、25、6歳の頃、まだ結婚する前だったと思うが、親父はそのころ病気がちで、ある日、志賀島に行きたいから、連れて行ってくれないかと言う。車もあったし、日曜ならいいよということで、送って行くことになった。
 行き先は、親父が軍隊時代に同じ部隊で、憲兵隊の上司だった人だと言う。確か若林さんと言った。おふくろも交流があったようだ。

 親父たちは、フィリピンの方に行っていて、戦争が終わる頃は、米軍の激しい攻撃で、何とか帰って来たのは、実に全体の2割程度というから、その帰国行軍は、私達には想像できないと思う。ただ、戦争映画などで見る悲惨な姿を見て、あんなものだったのだろうかと思うしかできない。
 おそらくそんな過去もあって、親父からは、ほとんど戦争の話は聞くことはなかった。
一度だけ、酔って気持ちのいい時に、南方では憲兵としてバイクに乗っていたという話をしてくれた記憶がある。

 こどもの頃に、海水浴で連れてきてくれた志賀島に、今度は私が親父を連れてくることになるとは想像もしなかった。
 親父は、癌を患って70歳でこの世を去ったが、何故か、若林さんと会った時の姿が残っている。

 - 雑記

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