鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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杣人伝 その3

   

杣人伝 第二章  隠れ里

 品川高校の校長室で、関矢校長は教頭の朝倉が来るのを待っていた。
校庭の木々も、新緑が見えるようになり、あと半月足らずで入学式を迎える三月半ばの放課後のことであった。
 校長の関矢は、滋賀県の出身で、東京の大学の教育学部を出て、教職に就いて以来、ずっと東京暮らしで、生地である滋賀に帰るのも、故郷の六所村の年に一度の先祖祭りの時くらいのものだった。
 祭りは、村神様である六所神社で、二日間に渡って夜通し行われる。神主によって先祖の慰霊の儀式が執り行われた後、身体全部を黒装束と白装束で覆った男女が、飛び跳ねるように舞い、松明を炊いて飲み明かす。
 三十年に一度の大祭では、近隣六ケ所の地区の氏子(うじこ)が集まり、親睦である樹齢二百年と言われる一対の大杉のご神木に登って、枝切りをして、しめ縄をかけ替えたり、六地区の奉納演武が行われる。
 先週は、丁度その大祭ということで久しぶりに帰郷し、その際に六所神社の「氏子寄り」という代々の氏子の集会に行き、氏子総代の長老から、ある頼みごとを持ち帰っていた。

 関矢は、滋賀での出来事に、自分自身がまだ信じられない状態であったが、三月半ばとなり、その時まで時間もないと覚悟して、朝倉教頭に話を切り出したのだった。
「実は、唐突で信じがたい話だと思うが、朝倉さんにどうしても力を貸して欲しいことがありましてね」
 朝倉は、関矢とは、この高校で勤務するようになって三年近く経つが、関矢がこのように真剣な表情で相談を持ち掛けることは余程のことだと予感した。
 そして、関矢の次の言葉を待った。
「朝倉さんは、確か九州出身でしたね」
「はい、おっしゃる通り、私は福岡の山門郡山川町という、福岡でも南の方の田舎町の生まれで、今は近隣の町と合併して、みやま市という市名なりましたが、高校までは地元の高校に通っておりましたが」
 今年、五十歳になったばかりの朝倉だが、白髪が多く、縁の厚い眼鏡をかけているせいか、関矢より年上に見られることも度々だった。
 ただ、学生時代は陸上部に所属していたためか、身体は細身ながら、至って丈夫だった。

 朝倉は、地元の進学校、山門高校を卒業後、東京の立教大教育学部に進学して、教員となりそのまま東京の高校に勤めた。
 教員の道を選んだのは、地元で教鞭をとっていた父親の影響だと思ったし、自分でも、どちらかと言えば無口の方だから、商社マンや銀行員は合わないと思っていた。
 妻は、東京の最初の高校で勤務した時に知り合った教員で、姉妹だけの家庭で、彼女が長女だったことと、朝倉が長男ではなかったことから、婿養子の形で東京に居座ることになった。
既に、地元福岡より、東京の生活がずっと長くなっていた。

「実は、急な話で申し訳ないのですが、その九州に行って頂きたいのです」
「九州へ、ですか」
実家に帰る以外にも、学校の業務の関係で、九州に限らず何度も日本各地の研究会や、父母教師会などの世話、そして入学希望者の募集などで出かけることは多く、今更九州に行くことについて何の違和感もない朝倉だったが、今回の依頼は、今までのその類の出張とは違うようだということは、関矢の顔色から感じ取った。
 関矢は続けた。
「朝倉さんは福岡だから、同じ県南部の、あのお茶で有名な八女地方の矢部村という所はご存知ですね」
 朝倉は、山門高校時代に陸上部のキャンプで行った、矢部の日向神ダムの周辺を思い出しながら答えた。
「はい、高校時代に何度か行ったことがありますが」
 何で突然、矢部村と言うような、当校とは結び付かないような地名が出てきたのか、不思議な気持ちで関矢の次の言葉を待った。
「実は、私は長崎と鹿児島、それに宮崎と言う九州の観光地は行ったことがあるのですが、不思議と福岡には縁が無かっんですね。それに、九州には縁者もいないと思っていましたし、きいたこともりませんでした。ところが、ご存知の通り、先週、故郷の滋賀に帰った時、意外な話を聞かされたのです」

 関矢の話はこうだった。
関矢は、故郷の滋賀県甲賀郡六所村の六所神社という神社の神主、神主は関矢の縁戚にあたるのだが、その神主に呼ばれて、すぐには信じがたい次のような話を聞かされた。
 この六所村は、徳川時代中期に、徳川幕府による、幕府お抱えのお庭番以外の忍者抹殺計画を察知した伊賀の忍びの一族が、身を隠すために百姓やきこりに身を変えて住み着いた村で、その子孫が今の六所神社の氏子衆と呼ばれる人々であること。
 六所村の六所というのは、伊賀者が分散して身を隠したのが六集落で、その六集落の者たちが、拠り所として建てたのが六所神社であり、六所神社と言うのは、幸いに別の意図で建てられたものが日本全国にあるため、幕府に怪しまれることもなかったこと。
 更に、関矢がその六忍群の総元締めの末裔にあたること。
関矢は、朝倉にここまで話して、少し苦笑いを見せながら言った。
「私もね、忍者の子孫なんて聞かされた時には、何のことやらでしたよ。でもね、その神主は我が家の姻戚でもあり、昔からよく知っている賢人で、冗談を言うような人でないことは知っていますからね」

 関矢の生まれた六所村の山一つ越えた三重県の伊賀は、忍者の里として観光地になっており、忍者屋敷があり、忍者ショーが行われたり、忍者資料館まであって、関矢自身も中学生くらいまでは見物に行ったこともあった。
 しかし、成長するに連れ、本当にああいあ黒ずくめの格好をして手裏剣などを操る忍者がいたのか信じがたいものになっていった。
 この年になって、その忍者の子孫と真顔で言われても、何とも感想の応えようもないと言うのが正直なところであり、受け入れがたいものだった。
 ただ、この六所村も、伊賀が観光で開発され、伊賀との間に車道が新設されて後、関矢も六所村自体が、伊賀や甲賀と同じ忍びの里だったというような話を、昔に聞かされたような覚えはあった。
 今では、六所村に、そんな跡形も雰囲気も無く、周りを見渡せば、農業を営む人や近隣の町に勤めに行く人。そしてハイカラな洋風の家と、ごく普通の風景で、そう聞いた記憶はすっかり薄れて、特に大学進学と共に東京に出てきてからは、非現実的な話として頭の中から消え去っていた。

つづく

 - 雑記

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