鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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少年時代2

      2015/07/30

 中学に行くと、地区の異なる小学校2校が一緒になる。
ソフトボールや相撲の交流試合や、母の実家が相手の校区だったので、顔見知りのワルがきも何人かいるが、ほとんど初顔合わせで新鮮でもあり、お互いの出身小学校のプライドがある。
 とにかく、入学してしばらくは、いろんな形でざわつく。
当時の、中学校には、野球部はなく、ほとんどの男子生徒は剣道部に入部した。
私も、当たり前のように剣道部に入部した。チャンバラは好きだった。
 後は、バレー、卓球、女子のソフトボール、何にも入らない浪人部というユニークなクラブもあった。
相撲と陸上は、いろんな大会前に即席で作られ、私もリレー部門で即席部員だった。
サッカー部などというものは、もちろんなかった。それは近隣の中学校にもまだなかったようだ。
 小学校でリーダー的存在だったので、中学校でもそれを引きづったまま、表裏一体的主役だった。

中学の時に、初恋も経験したが、何も行動しないので何も起きなかった(笑)
この時代に、自分が好きな人と、好かれる人が違うと言う、この世はままならぬということを悟った。
まだ、この時代は、男は男同士という風潮で、男女が一緒に歩くことが珍しい時代だった。

 卒業が近づくと、当時から受験のための補習授業が始まり、みんなクラス分けさせられ、今までのワルがき達も、一変して真面目に放課後の授業をうけたが、私は、先生方の期待を裏切って、農家の後を継ぐために当時の成績からすると、かなり安易な高校を選んだために、一人だけ補習事業を免除され、遊びほうけていた。
 後で聞いたが、その高校から、親や中学に対して勧誘があって、そのための補習免除だったらしい。
本当は、恩師が進めてくれる大学進学をしたかったが、当時の田舎では、高卒して就職が殆どで、その頃全盛を極めていたみかん農家の後継ぎは、当時人気のあった地元の農業高校園芸科に行くのがエリートコースで、大学に行く必要はないという風潮があった。
 まして、両親はみかん園の拡張に投資して、我が家にそれほど余裕はないと感じ取っていた。
それに、その高校を出ると、国の支援でアメリカに農業留学できる制度があるらしいという、私にとってこの上ない話が興味を誘った。
 中学の時に、当時放映していた「夕日と拳銃」という、日本人が満州に渡って馬賊の頭となって活躍するドラマに感化され、友人と密入国を企てたくらい外国に行くのは夢だった。
自分で言うのも可笑しいが、私と言う人間は、とにかく生来の単純でポジティブな性格らしい。
 かくして、3年間遊べるという農業高校へ行くこととなった。

 - 雑記

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