鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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808 死の捉え方

   

人間、いつかは死ぬ。幼くして病気で死ぬ場合もあれば、人としての盛りの時期に、不慮の事故で死ぬ場合もある。稀に、悩みや苦しみに耐えきれず自ら命を絶ったり、思いもしない殺人の犠牲になることもある。逆に100歳以上も生きることも珍しくなくなった。

いい人だから長生きするとも限らないし、みんなから慕われる人が事故で亡くなったりもする。事故で亡くなる場合は、死というものについて考える時間もないが、病気で余命を告げられると、自分の死というものについて、否応なく考える。死ぬと言うことは、科学的に考えれば、体も精神も自分の存在の全てが消え去ることだ。もちろん、家族や友人の思い出としては残るが、自分自身から見ると無になる。

ただ、考え方次第で、自分の存在が無になると思うのか、今まで生きてきた人生に価値観を感じるかによって、死の捉え方は全く違ってくる。両親のお陰で生を受けて、社会に出て仕事をし、やがて結婚して子供を育て、子育てや仕事を成し遂げ、社会にもある程度の貢献をできたとすれば、死を前にしても、それほど空しくも悲しくもない。充実感さえ感じることも出来る。

それが、利己的に生きてきて、家族も友人もいない、仕事も達成感がないままに死を直前にしたら、それは空しく寂しいものになるだろう。また、死後の世界の考え方も、死に対して大きく左右する。

死んだら骨となって、冷たい墓石の下に埋められると思うのか、肉体はなくなるが、魂は形を変えて存在し続けると思うのか、はたまた、天国という死後の世界があってそこで先に逝った家族友人と再会して苦しみの無い時を過ごせると思うのか。全ては、現実社会の生き方にかかっている。

周りのみんなが、私が死を宣告されていて、なぜ、そんなに元気で明るくしていられるのかという。病気は間違いじゃないかと(笑)。その理由は、1つに、生まれてからこれまで、やりたいことをやって、今、家族の将来にも不安が無く、仕事も成し遂げたと言う達成感があること。2つ目は、有難いことに、元々性格的に楽天的で前向きだったこと。3つ目は、私が元気にしていると周りのみんなが喜んでくれること。

更に、私は理屈では死ねば私と言う人間は現世界から消滅することは分かっている。ただ、これは早かれ遅かれ、みんなに訪れること。しかし、精神的には、仏教もキリスト教もそれほど関わりはないが、死後の魂の存在を信じたいと思っている。ただ、経験はないので(笑)どういうものかは確信を持てないが、魂となって、天国にも行くし、家族も見守ってあげられる存在。

例えて言うなら、空気みたいなものだ。身体は、私の魂が借りていた道具。死んで屍を脱ぎ捨てて、空気のように自由自在に空を飛ぶ。そう考えれば、多少早くても、責任を果たしてからの死は、恐れることはない。

 - 雑記

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