鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

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杣人伝(そまびとでん) 1

   

奥八女 杣人伝      靏 繁樹

 第一章  秘境 矢部

 九州の福岡県南部、筑後地方の八女市矢部村(八女郡矢部村が市町村合併によって八女市となった)は、福岡・大分・熊本県の三県が接する標高の高い山間部にあり、そのいずれの県に於いても都市部から最も遠く奥深い所に位置している。
 今でこそ、矢部川の上流に、八女の水がめとと言われる日向神(ひゅうがみ)ダムが出来たことで、道路が整備され、矢部の奥地まで車で行くことが出来るようになったが、昭和の中頃までは、正に秘境と言うべき閉ざされた山村だった。
 その中心となっていた集落は、今はダムの底に沈み、旱魃の年にはダムの水位が下がり、その形跡を現わすことがあるという。
 今は、ダムの周りを、千本桜と言われる桜が取り囲み、地元でハート岩と呼ばれる、ダムの奥に見える奇岩と共に人気の景勝地となっており、ダムの上流も、その自然を生かしてキャンプ場や夏場の合宿施設、清流をそのまま生かした、イワナ釣り場などが点在している。

 日向神ダムの更に上流、矢部の集落を通り抜けると、大分県まで車で行けるようになった。 その峠には、江戸時代に発見され、今は観光スポットとなった鯛生(たいお)金山がある。
 それまでは、人がようやく通れるだけの獣道と木を切り出すための林道があるだけだった。
森林の多くは国有林で、手つかずの原生林も多く、その古木の集生地は、源流の森と呼ばれ、パワースポットとなっていたが、先の豪雨災害で林道が決壊し、今は踏み入ることが出来ない。
 矢部村は八女市内から遠く離れているため、住民の殆どは林業と、八女玉露茶で有名な茶業で生計を立てており、村民は千三百人程の村である。

 南北朝の時代に、第九十七代村上天皇の代六皇子である良成親王は、後醍醐(ごだいご)天皇の孫で、叔父にあたる征西将軍懐良親王の九州征伐に伴い、九州の大宰府に赴いていた。
 それから数年の後、将軍職を継いで後征西将軍となったが、時の朝廷が南北朝に分かれての戦となり、やがて九州を転戦することとなった。
 敵方の北朝軍が優勢となり、今の熊本県菊池市にあった、南朝軍本陣としていた菊池城が落とされ、城主、菊池武光の尽力で、先に叔父の懐良征西将軍に従って京より下っていた五条頼治が統治する矢部に落ち延びた。
 八女市の隣の久留米市に大刀洗川という川があるが、この時の戦で戦った菊池武光が、血糊のついた刀を、その川で洗ったことから、この名が付いたと言われている。
 良成親王は、矢部の御所で南朝の再興を期したが、夢空しく崩御したと言われ、その亡骸は矢部の奥深くに今も祀られ、この御陵から山手一帯を地元では、杣の里(そまのさと)と呼ばれている。

 杣または杣人と言うのは、「きこり」のことだが、縄一つで、杉や桧(ひのき)などの高木に登って枝を切り落としたり、木渡りするような孤高な姿から、木の仙人という意味も含めて、そう呼ばれたらしい。
 今も、矢部の五条家には、後征西将軍の金鵜の御旗など、その遺品が代々受け継がれ、良成親王御陵の前では、毎年十月八日の親王の命日に、その家来衆の子孫や村人で慰霊祭が行われ、現在は、八女市と宮内庁で盛大且つ厳かに執り行われている。
 その際には、良成親王に縁のある、熊本県菊池市や奈良県吉野町からも参列があり、当時から、地元に伝わる公家唄や舞が奉納される。
 また、その名残として、この一帯には御側(おそば)や公家坂という地名や御前(ごぜん)岳という山があり、この村民に多い栗原、江田、轟という姓は、親王や五条家に仕えた武士の子孫と伝えられている。
 
 この八女地方について書いておこう。
古くは、大和朝廷の時代、八女津媛(やめつひめ)という女王が、この地一帯を治めていたとされ、その名から矢部村を源流とする下流域一帯が、八女という地名になったと言い伝えが残っており、かなり古代から人が住みついた地域だと思われる。
 矢部には、その八女津媛神社も、良成親王御陵の下流に建立されている。
また、八女地方から隣接する熊本県にかけては、壇ノ浦で敗れた平家の落人部落も点在し、八女の白木谷や、みやま市の山川地区には、平家や藤原家に因んだ、平姓や藤の文字を持つ姓が多い。
 果たして、本当に子孫であるかどうかは定かでないものの、山川では、毎年行われる平家祭りが、その名残を残している。
 これらのことから、この一帯が、人が入り込み難い反面、我が国でも温暖な地で、山中にあっても、冬も越しやすいことを物語っている。
 事実、今からは想像も出来ないが、八女の奥地の矢部村が、当時は軍事的にも重要な要衝であったらしく、南北朝時代以前から、武家を中心に大きな集落を形成し、かなり栄えていたことが史書に残されている。

 俗にいう戦国時代、尾張の織田信長が天下統一を目論み、志半ばにして明智光秀の謀反にあって倒れた後、家臣木下藤吉郎、後の豊臣秀吉が主君の意志を継ぎ、秀吉亡き後を、徳川家康が総仕上げを行い、徳川三百年の礎を築いた。
 織田信長より以前、各地の列強が天下取りを争っていた時代、敵の情勢や戦力を探り、時には敵国に紛れ込んでかく乱を起こし、必要であれば敵国の主要人物の暗殺を謀るなどを目的に、隠密裏に行動する「忍び衆」と呼ばれる者がいたことは、現代でも知られている。

 明治維新により、武家社会が終焉を迎え、文化の発展と共に映画などの娯楽が増えると、その「忍び」という存在も、講談や文庫本の「真田十勇士」に登場する猿飛佐助や霧隠才蔵に代表されるように、忍術や活躍ぶりが、かなり誇張されて紹介されるようになった。
 そこに登場する「忍者」と言えば、独特の黒装束に網目の胴着、背中には刀剣を背負って、手裏剣を投げるというのが定番となっている。
 事実、戦いの方法が、徳川以降、軍団と軍団がぶつかり合う消耗戦から、知略を用いた戦に代わると、そういう者達の情報収集力が勝敗に大きく影響を与えるようになり、領主は独自に「忍び」の育成鍛練に力を入れ、内部にも漏れぬよう、隠密裏に「忍び」を抱えるようになった。
 信長は、かつて、忍びの者達の存在を危惧して、忍びの里とされる伊賀の集落を焼き討ちにしたが、家康は逆にこれらを重用し、天下を治めた後も諸大名の情報収集に利用した。
 このことからも、信長の気性の荒さと、家康の懐の深さの違いが見て取れる。

やがて江戸時代、「忍び衆」は、各藩の情勢を探る隠密や、お庭番と呼ばれ、陰で徳川幕府の基礎を固めるための、その名の通り、縁の下の力となっていった。

つづく
 
 

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