鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

*

義父の死

   

 以前の投稿で書いたが、私には1人の弟がいて、今は陶芸家となり滋賀県の、たぬきの焼き物で有名な信楽に住んでいる。
弟は元は靏光春という名前だが、その後、縁があって茶陶の窯元の養子となり、上田光春となり、義父の後を継いで六代上田直方となった。
 義父の伝統陶芸を受け継ぎ、今は、全国で個展を開催したり、講演など活躍しているようだ。
 その義父が亡くなった。
義父は、四代直方の後を継いで、茶陶製作一筋に一生を終えた。
 白髪のオールバックで、飄飄として、穏やかで時々冗談も言う。晩年は近くの喫茶店でコーヒーを飲むのが日課で、癌が見つかって手術できるような状態ではないが、痛みは無く日々の生活に支障はないと聞いていた。
 一度、元気なうちに会いに行きたいと思っていたが、信楽は大阪から、更に汽車を乗り継いで行く奥地にあり、弟夫婦が年に1、2度は来るのこともあり、とうとう行けないでいた。

 義父とは、誰でも一度はあるように、弟夫婦間で、ちょっとだけ(笑)おかしくなったとき(なかなか子供に恵まれなかったことや伝統に対するプレッシャーなどでの弟の迷いから起きた騒動だったが)に、共に心労、苦心した中であり、戦友みたいな感じも持っていた。
一度、そんな最中に、父が死んだときに葬儀に来てもらい、通夜の夜に、飲みに誘って一緒に飲んだが、後日全く酒は飲めないと知った。
 父が病気だったので、結婚の時も、親代わりとして出向いたし、その後も何度か寄ることがあったが、「おにいさん、ようきてくれはったなー」「さよか、そやなー、ほんまかー、そやそや」という、関西弁の独特の口調が懐かしく思い出される。滋賀県の無形文化財として海外まで活躍され、90歳近くになっていたし、痛みも無かったというので、大往生と言っていいと思う。

 弟夫婦も落ち着いて話し合ってからはうまく行くようになり、一時は諦めていた待望の息子、つまり義父にとっての内孫も出来、その息子が更に七代直方を継ぐべく、早いもので、今は大学で学んでいる。
 時々の便りで、義父も幸せで穏やかな老後だったようだ。
 最寄りの駅から、信楽駅まで5時間半かかる。
久しぶりの汽車旅だ。
 帰りに台風が少し心配だが、その時はその時。
20日に予定していた株主総会を、台風に備えて23日に延期していたが、それも葬式と重ならず助かった。

 
 

 - 雑記

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