鶴の一声

靏繁樹が日々考えたことや思いついたことを徒然とかきます

*

杣人伝 その8

   

第三章 遭遇

 三沢みずきは、久しぶりに青空が広がった土曜の朝、ミニチュアダックスの愛犬のミックを連れて、自宅近くの高宮公園まで散歩に行く途中だった。
 みずきは、私立品川中学の卒業式も終え、品川高校への進学も決まっており、一つの山を越えたようなのんびりとした気分を、晴れ上がった空が、更に清々しい気分にしてくれた。
 
 みずきの住むこの一帯は、高級住宅地とまではいかないが、品川駅からプリンスホテルを抜けて、坂道を越した高輪の閑静な住宅街で、緑や生け垣が多く、街路樹には点々と大きな桜の木が配置されている。地区の条例で建物の高さも制限されているため、陽当たりも良く車の往来も比較的少ない、みずきも結構気に入っている街並みだった。
 ただ、昔からの住宅地なので、幹道を除いて道幅があまり広くなく、結構曲がっているので、前から車が来るのも分かり難いという難点はあった。
 自宅を出て、道路の両側に生け垣が続く家並みを過ぎ、ここから左側が少し高台になっており、左側だけ石垣が続く。ちょうど右に曲がる坂道に差し掛かったとき、道路の反対側を白い子犬が歩いてくるのが目に入った。

 子犬は、こちらのミックにも気づいたようだ。
短めの白い毛は汚れてもおらず、真新しい首輪もしているので近所の飼い犬だと思ったが、誰かが散歩途中で放してあげたのだろうか。
 子犬は、ミックを見て、何度かこちらに来ようとするそぶりを見せていたが、近づくと、ついに道路を横切ってちょこちょこと、こちらに向かって走り出した。
 それと同時に、よく見かける宅急便のトラックが前方の坂から車体を現わした。
みずきは、車のスピードと子犬の速さ、その距離から間違いなく子犬が車と接触すると咄嗟に思った。
 みずきが、制止する間もなく、車は確かに子犬とぶつかった。と思った瞬間、犬の他に何か黒い塊のようなものが車の前に飛び込んだと思った。思わず、みずきは手で顔を覆った。

 キキッーっという車のブレーキ音が響き、みずきは覆った手の中で、車の後ろに血を流して横たわる子犬の姿を思い浮かべた。
 数秒間だったろうか、車から運転手が降りる音がして靴音が聞こえた。きっと車の後ろか下の跳ねただろう白い子犬を探しているのだろう。
 みずきは、動けないまま、そっと覆った手を解いて、その車の方を見た。
運転手は、まだ車の周りを回って、腰を折って車の下を覗きこんで、そして何度も首を傾げた。
 子犬を連れて立っているみずきにも気づいて、何か尋ねたいような様子だったが、思い止まって、もう一度車の周りと生け垣の中を少し覗いて、結局また首を傾げながら、思い切ったように車のドアを開けて走り去った。
「えっ、何?」
みずきは、声に出ないような言葉を頭の中で発した。
 車が走り去った後には、確かに黒い二本のタイヤのブレーキの跡が残っているが、子犬の姿はなかった。
 みずきは、トラックを見送った後、小走りに道路を渡って、恐る恐るすぐそばの生け垣の根元当たりを探した。あたり一面を、もしも跳ねられたらと思う範囲を探したが見当たらない。

 みずきは、何が何だかわからない、幻を見たような感覚で暫く立っていたが、そのまま公園に行く気にはなれず、足元にお座りをして、みずきを見上げているミックの紐を軽く引いて家に戻ろうと足を踏み出したとき、歩道の後方に人の気配を感じて振り向いた。
 そこには、間違いなくさっきの白い子犬を抱いた青年、いや、まだ自分と同じくらいの少年だと思うが、いつの間にか立っていた。
 ちょうど、逆光になっているが、優しそうな少年の顔は何となくわかる。
みずきが、驚いて声も出せないまま、その少年と子犬を見ていると、少年は子犬をそっと歩道に降ろして、坂を下って行った。
 子犬は歩道に立って暫くミックの方を見ていたが、やがて、少年を追って坂に消えて行った。

 みずきは、ミックを両腕に抱えて自宅に帰ったが、どうも釈然としない。
子犬は、間違いなく、あのトラックに轢かれたはず。だから、運転手も急ブレーキを踏んで、確かにブレーキ跡も残っていた。「じゃ、轢かれる前にあの少年が助けたと言うの?それとも咄嗟に犬が戻ったの?」何度考えても腑に落ちない。
 そもそも、あの寸前まで、自分の視界の中に少年の姿は無かったのだ。それに、あんな軽装で自転車にも乗っていなかったのだから、この近所の子に違いないけど、同じ中学校にはいないし、今まで見かけたこともない。
 もちろん、この辺も、周辺に新しい宅地造成をやっていて、家も建っているからこの頃引っ越しして来た子かも知れない。
 
 その日は、父親は会社の接待で朝早くゴルフに出かけ、二つ違いの姉の慶子は、春休みで友達と約束があると言って、いそいそと出かけたので、昼は母親の美津子と二人だけの食事だった。
 今朝の出来事を自分の胸の中だけには仕舞っておけず、美津子にその不思議な出来事を話してみるが、何かの見間違いだろうというような感じで、空返事はするものの、あまり真剣に聞いてくれない。
 次の日曜も、そしてその後も何度か、ミックを連れて同じ道を通ってみたが、あの少年と会うことはなかった。
 しかし、あの時の、道路に残る黒く焼きついたタイヤの跡は、あの事件が夢でも幻でもなかったことを物語っていた。

つづく

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